2014年5月24日土曜日

逃走中

夕方、赤倉の町中を走る子ども達。
はぁーはぁー、言いながら、時より悲鳴のような声があがる。
追いかけて、追いかけられている。


何事かと言うと、『逃走中』
数年前から子ども達の中で流行っている遊びである。
ここんところ、随分御無沙汰だと思っていたら、今年初めて。

「4時半丸米前集合ねー」と子ども達の声。
決して鬼ごっこではない(笑)
某テレビ局の番組でやっている事を、赤倉の町いっぱい使ってやるのである。
ハンターは大変! 
 息を切らして追いかける。
逃げる方も大変! 
 顔が真っ赤
男女低学年から高学年まで、みんなで参加。20人くらいは居たと思います。
今は遊びも変わり、ゲームばかりやってる子ども達も多いと思いますが、こんな事も出来る環境、良いまちです。良い子ども達です。



7 件のコメント:

  1. 那須尚之と申します(旧姓:西嶋尚之ニシジマタカユキ:あだ名たー坊)
    懐かしい風景をありがとうございます。
    昭和48、49年に、木造平屋の赤倉小学校に通っていました。
    昭和41年4月2日~42年4月1日生まれの方が同級生になります。
    アベシンタロウ君、オオバケイタ君が同級生です。ヒトハネから通ってきた「サトッペ」も…
    「たちより」という小料理屋さんの娘さんも同級生です。それと、赤倉小学校を下ってきたところに当時山形交通のバスの折返所がありました。運転手さん、宇佐美さん。折返所横に家があった。その家の娘さんも…
    子どもたちが駆けている坂道、湯澤屋さん、クラブ食堂さんの前の坂道ですよね。子どもたちは駐車場に曲がっていますが、その横に石段?だったかな…坂道があって登り切ったところに私が通った赤倉小学校がありました。
    丸米…。赤倉ホテルへ向かう下り坂入口の左側にあった八百屋さんですよね…
    赤倉小学校に通っていた小学1、2年生のころを思い出しました。
    この道のつきあたり「みどりや旅館」だったかな?吠える犬がいて、怖くて通れなかったな…
    懐かしい、風景ありがとうございました。

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  2. 那須さん、コメントありがとうございました。
    多分、ウチの妹が1コ下になると思います。名前をあげられた方々は元気に赤倉で過ごしております。木造の赤倉小学校は既になく、現在は同じ場所にお湯トピアという公民館が建っております。子ども達が走り回っている場所はおっしゃる通りです。
    最近は赤倉にお出でになることがありますか?
    これからも、赤倉のこと発信して行きたいと思いますので、よろしくお願いします。

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  3. 私は「最上荘」って旅館があって、そこに橋がかかっていた。
    その橋の赤倉ホテル側に住んでました。2階には、門脇先生という「ケーシー高峰」さんのお兄さんの「診療所」が…。わざわざ向町から来てくださって…。
    その後、母一人子一人の私は、「河畔」という川沿いの小料理屋さんに間借りして暮らしていましたね。
    「たあ坊!あそばねが!」
    遊びに誘いに来てくれる友達の声、思い出しますね。

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  4. 平社さん、これからも赤倉を発信してください。
    楽しみに拝読させてください。
    赤倉には、結婚前の私が23歳のときに、一度訪れただけで、すっかりと…
    幼少の頃、お世話になった「河畔」のおんちゃんのところへ家内となる女性と母を連れて…御礼を…。
    その時、ショックだったのは「鉄砲水」で最上荘向かいあたりの河川敷が削られてしまったこと…。
    よく遊んだ赤倉ホテルがなくなったこと…
    確認しなかったけど、最上荘の橋、赤倉ホテル側に川沿いにあった共同浴場…。どうなったのか…。

    でも、子どもたちが走回る坂道の見て、私も思い出す…
    それだけ赤倉は「ステキなところ」!!!

    私の子どもたちにも、赤倉の風景や、赤倉の優しい人たちにふれあってもらいたい…
    今度、赤倉に「家族一緒に、訪れてみたい!帰ってみたい!」、と思います。
    平社さんのブログを拝読し、心から思いました。
    帰ったときには、よろしくお願いします(^_^)/

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  5. 赤倉小学校に在籍されていたのは、1・2年生の時でしょうか?
    平成16年に赤倉小学校は創立50周年をむかえ、その時作った『湯けむり』という記念誌があります。第1回卒業生からの写真が載っておりますが、那須さん(西嶋さん)の名前は載っておりませんでした。しかし先に書かれていた同級生の名前がありました。地元で美容院をやっている方もおりますよ。
    最上荘に渡る橋は度重なる洪水で流され今はありませんが、少し上流に立派な橋が出来てます。
    あの木の橋も良かったのですが。
    赤倉ホテル側にあった共同浴場、通称「ほっけの湯」はまだあります。
    以前よりも嵩上げして、近所の方々が入ってます。
    「河畔」はもう営業していませんが、おばちゃんがおります。
    赤倉ホテルは、本館は壊してしまい、新館はマンスリーマンション「せんしん館」としてやってます。赤倉の移り変わりすべてを書ききれませんが、赤倉人の中で少しずつ書いて行きたいと思います。特に昔の写真を集めているので、それも公開しようと思います。
    きかなすヤロッコ、ヘナッコ達が多かった昔ですが、今はみんな仲良くして過ごしています。
    いつでも赤倉は故郷として待ってますよ。
    こちらへお出でになるときはご連絡下さい。
    (P.S. オオバ君は旅館をやってます)

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  7. 平社さん、間違いありません。1,2年生の時にいました。2年生の時、県境を越え鳴子小学校へ転校。
    中途半端だったから、学期が終わるまで、鳴子から羽前赤倉まで陸羽東線で通っていました…。卒業生には名前はありません…。赤倉小学校に、もし入学者名簿が残っていたら…私の名前があります…。
    2年生の時、お別れ会を開いてくれました。母親が私に、鳴子駅で持たせたものは、鳴子駅の駅弁「きのこ弁当」を20個ほど…。それを持って、鳴子駅から羽前赤倉駅へ
    「バスの運転手さんにも渡してね…。それと、羽前赤倉駅の駅員さんにも…」
    羽前赤倉駅の駅員さんにも、バスのウサミさんにも…。そして、赤倉小学校の2年生にも…

    赤倉小学校入学前、赤倉から羽前赤倉駅まで、バスで保育園に通っていました。
    ウサミさんのバスにお世話になりました。
    バスの運転手の娘さん「ミサコちゃん」…
    たちよりの娘さん「ヒロエちゃん」。思い出してきました。
    それに十数名の学年でしたけど、同級には「同姓同名」の「オオバミワちゃん」がいました。一人はヒトハネから通っていたので、赤倉小学校では「ヒトハネミワちゃん」って呼ばれてました。
    オオバケイタ君は旅館をやっているのですか…。実家は「床屋さん」だったかと…。
    アベシンタロウ君はガキ大将(^_^)/昔の赤倉小学校から「しんちゃん家」に行くのだけど、湯澤屋さんの坂道、下っていくと、つきあたりの旅館…。
    あそこの吠える犬が怖くて、手前の湯澤屋さんの横の一本橋を渡って、赤倉ホテルの横を走って、最上荘に向って、最上荘の横から「沢」を渡って、しんちゃん家に遊びにいきました(笑 、

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